2010年3月14日礼拝説教  十字架(1) ルカによる福音書 23章34節

 新約聖書の1ページを開けますとイエス・キリストの系図が延々と書いてあります。一見無意味な名前の羅列ですが、少し背景を調べますと、人間の数々の失敗の歴史を見ることができます。たとえばダビデ王が人妻と関係を持って生まれたのがソロモンです。そのほかにも娼婦あり、義理の父との関係を持った者あり、聖書にはきれい事だけでなく人間の醜さ・失敗も赤裸々に書いてあります。しかし神はそういった失敗者たちをわざわざお選びになって、その中から救い主の誕生を演出されました。このことは、わたしたちのどんな失敗・マイナスをも神は良いもの・プラスに変える力を持っていらっしゃることを物語っています。

 イエス様の十字架もそうです。神は十字架という人間が犯した最悪の失敗を最高の恵みに変えてくださったのです。私たちを神と和解させ、天国に入れてくださる方、救い主として来られた方を人間はなんと十字架につけてしまいました。神が私たちを哀れに思って救いの手をさしのべたのに、人々はそれを拒絶しただけでなく、さんざん侮辱し、暴行を加えたあげく、最後にはもっとも残酷な方法で処刑してしまったのです。映画「パッション」をごらんになった方はわかると思いますが、この状況はマタイの福音書26章から27章にかけて書いてあります。人間を生きている間だけでなく死んでからも永遠に罰する権威を持っている方になしたこの所業。これに対して、イエス様はどうされたか。

 イエス様は十字架の上で苦しみもだえながらこうおっしゃいました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)。神の子である自分を侮辱し、つばきをかけ、殴り、むち打ち、十字架にかけた人間に対し、イエス様の心の中にあふれていたのは呪い・憎しみではなく、あわれみ・愛でした。そのあわれみ・愛によって十字架上で私たちの罪の呪いを全部引き受けてくださったのです。愛の人、何も悪いことをしなかった人、あわれみに満ち、真理に満ち、人々に慰めを与え、癒しを与えた人。そんな人を残酷にも殺してしまう。直接手を下さずとも、それを傍観してしまう。そんな心が私たちの中にもあるのです。それを罪と言います。自分さえ良ければいい、自己中心、高慢、そういったものが私たちの心にもあるのです。私はそんなことはないという人は自分を知らないだけです。

 神がこれほどまで犠牲を払って私たちと和解をしてくださったのなら、何を恐れることがあるでしょう。私たちは何があっても大丈夫なのです。イエス様がついていてくださるからです。私たちがどんなに失敗しても、すべてのマイナスはプラスに変えられるのです。

ローマ 8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。