2010年3月28日 十字架(3)マタイによる福音書 27章46節

 私たちの人生にはつらいことがたくさんあります。その中で最もつらいことの一つは、愛する人に裏切られることではないでしょうか。身を犠牲にしてまでも愛し育てた子どもに裏切られる。信頼していた友人に裏切られる。夫や妻に、恋人に裏切られる。「こんなに愛したのに、こんなに尽くしたのに。なんで」と思いたくなるでしょう。残念ながら私たちの人間関係の中ではしばしばこういうことが繰り返されることがあります。一度ならずも二度までも、三度までも、となりますと、もうその人をあきらめたくなります。もう縁を切りたくなります。実は、神様と私たちの関係も同様なのです。ただし、裏切ったのはいつも私たちの方です。神は私たちを愛を持って造り、良きものを持って慈しみ、はぐくんでくださいました。しかし、人間はそんな神様を無視し自分勝手な生き方をし、自分、人との関係、自然環境さえも壊してきたのです。そうして都合が悪いことがあると、神の生だとか、神は私たちを愛していないなどと文句を言ってきたのです。

 神様も感情を持っていらっしゃいますから、愛する者から無視されたり、誤解されたり、裏切られたりすることでどんなに心を痛められてきたことでしょう。しかし、人間と違い神は完全なる愛のお方です。裏切り続ける人間を神は見捨てることができないのです。イエス様が十字架で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたとき、イエス様は本当に神に見捨てられたのです。見捨てられておかしくなかったのは私たちなのです。イエス様が身代わりになってくださったおかげで、私たちは決して神から見捨てられない恵みを受けたのです。私たちが、愛されるにふさわしい者であるからとか、何か良いことをしたからではありません。神が私たちを愛してやまないからそうなさったのです。

 私たちの人生で、人から見捨てられ、神からも見捨てられたと感じるときがあっても、イエス様の十字架というとてつもない犠牲を払ってくださった神が私たちを見捨てるはずがないのです。神は、どんなことがあっても救いを求める者を見捨てはしません.