与えられたものを生かして ルカ 19:11-27 マタイ 25:14-30

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっています(ヘブル 9:27)。私たちを造ってくださった天の父は、私たちに二つのことを願っておられます。一つは、間違いなく天国で父と過ごせるように天国行きの切符を手に入れることです。私たちは神のあわれみにすがる以外天国に行けません。私たちが自分を知れば知るほどそのことが明らかになります。天国の切符を手に入れるのは聖人になるとか、善行を積むことによってではありません。自分の罪深さ(自己中心)を知り、その罪を背負ってくださったイエスキリストの十字架による救いを受け入れることによってです。私たちを愛してやまない天の父は、この救いから一人も漏れて欲しくないのです。

天の父が私たちに願われているもう一つのことは、父が与えてくださったものを私たちが生かして使うことです。私たちは皆いのちをいただいおり、様々な天の父からの恵みによって生かされています。才能、財産、健康、家族、家庭環境、国、時代などは人によって異なるものが与えられています。天の父はこれらのものを私たちがどのように使うかを興味深く見守っておられます。せっかく生を受けてこの世に送り出されたのに、自分のことだけを考えて自己中心の一生を送ってしまったとしたら、なんともったいないことでしょう。たとえ天国に行ったとしても、悔いが残るでしょう。私たちの人生は、神からいただいたものを自分だけのために使うのではなく、神のために使うためにあるのです。神のために使うというのは、具体的には「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということです。そのとき、与えられた1ミナ・1タラントは本当に生きた働きをするのです。私の隣人とは誰か?それは、まず伴侶であり、子、親です。そして、職場の同僚であり、近所の人かもしれません。また、教会の人でもあるでしょう。何らかの理由であなたの人生に関わり合いができた人。または、全く見も知らない遠くの国の人かもしれません。みんながマザー・テレサにならなくて良いのです。与えられたタラントに応じて、少しでも自己中心という狭いカラからはい出して、人を愛する、赦す、人のためを思って行動する。そのとき、私たちは神が私たちのために用意してくださった人生を本当の意味で良く生きたことになるのです。