2010年5月23日 10時半 第21回礼拝
イエス・キリストというと、どういうイメージを思い浮かべられるでしょうか?優しく、清らかな人、でもどちらかというとくそまじめでおもしろくない、いった感じではないでしょうか。でも、イエス様がパレスチナの地で人々に神様の話をされていた時つけられたあだ名の一つは、「食いしんぼうの大酒飲み」(マタイ 11:19)でした(実際には酔っぱらうほどお酒を飲んだわけではないのですが)。イエス様は宴会が大好きだったようです。そして、奇跡を起こす人、神の預言者という噂だけでなく、イエス様はきっと一緒にいると楽しい方だったに違いありません。ですから、様々な人々に招かれて食事を共にしました。その中には取税人や娼婦その他当時悪名高いたちもたくさん含まれていました。イエス様はそういう人たちに対して「悔い改めないと地獄に行くぞ」などと言って脅したりはしませんでした。一緒に食べて飲んで楽しい時を過ごしながら、優しく天国の話をし、罪を赦しました。それが自分の罪深さを知る人々の心を溶かし、神様に立ち返らせたのです。
今日の聖書箇所でも、イエス様はカナという小さく貧しい村の結婚披露宴に招かれ、出席します。そこで、ワインがつきてしまうという事件が起こります。これは、当時の人々にとっては大事件で、ワインを用意する責任があった新郎の親にとっては末代までの恥となり得ることでした。そこで、イエス様が水をワインに変えてこの問題を解決してくださったというお話しです。でも、これは現代の私たちにも当てはまるお話しなのです。私たちもイエス様を自分の人生に招けば、イエス様は必ず来てくださいます。そして、私たちの人生に起きる様々な問題の解決を助けてくださるのです。それだけでなく、嬉しいときには一緒に喜んでくださり、悲しいことが起これば一緒に悲しんでくださる。そういうお方なのです。
当時ワインは喜びをもたらすものを表しました。イエス様は私たちの人生を喜びであふれさせてくださる方です。6つの水瓶いっぱいのワイン。それは、くめどもくめども尽きないほどの無尽蔵の恵みを表しているようです。恵みとは何でしょうか?それは、私たちが受ける価値がないにもかかわらず、神様が一方的に私たちにくださる良きものです。私たちはいろいろな失敗をします。自分自身がいやになるときもあります。そもそも人間はどんなに頑張っても、神の前に堂々と立てるほど立派にはなれません。でも、何があっても、あなた過去・現在がどうあっても、私はあなたが大好きだ、あなたは私にとって大切な存在だ、と言ってくださるのです。だから、喜びがあるのです。私が私自身を信じられなくなり、絶望しても、神様は私に絶望されないのです。何があっても、私とともにいて、励ましてくださる、そういうお方なのです。だから何があっても大丈夫、自信を持って生きていけるのです。