2009年12月13日(日)礼拝説教

クリスマス(1)
そこにも神がおられる
ルカ 1:26-56、マタイ 1:18-25、ルカ 2:1-21、マタイ 2:1-23

1.処女降誕

  • イエス様以外に人の手によらず生まれてきた人は誰と誰?
  • ルカ1:37 「神にとって不可能なことは一つもありません。」

2.マリアの祝福と苦難

  • ルカ 1:28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
  • ルカ1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。
  • ルカ 1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
  • マタイ 1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
  • マリアは祝福と共に苦難をも引き受けた。

3.ヨセフの祝福と苦難

  • マタイ 1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。 1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。 1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」 1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。 1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) 1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、 1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。
  • ヨセフも祝福と共に苦難を受け入れる覚悟をした。

4. ヨセフとマリアの逃避行

  • ヘロデ大王(在位 BC37-4)
  • アケラオ
  • マタイ 2:13 彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」 2:14 そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、 2:15a ヘロデが死ぬまでそこにいた。
  • マタイ 2:19 ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現れて、言った。 2:20 「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」 2:21 そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に入った。 2:22 しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。

5. そこにもおられ、導いてくださる神

  • 救い主の育ての親となる祝福を受けたマリアとヨセフ。しかし、結婚前にできた子を育てる苦労は容易に予想できた。
  • 救い主を育てるという大役を神から直接任された。にもかかわらず、ヘロデ大王とその子アケラオから命からがら逃げなければならなかった。
  • しかし、神はふさわしいときに、ふさわしい導きを与え、この家族を守ってくださった。
  • ヘロデから命からがら逃げている渦中にいるマリアとヨセフにとって見れば、神の祝福よりも、危険に対する不安が強かったかもしれない。
  • その時その時に現実に起こっていること、また常識的に考えてこれから起きそうなことを思うと、とても不安になる。それは私たちに神の大きな計画、神の御手が見えないから。私たちの目は近視眼。
  • 神の大きな祝福を受けたことはわかっていても、目の前の現実を見ると、疑いが出てくる、神様に訴えたくなる。
  • しかし、神はいないのではない、見ていないのではない、聞いていないのではない、傍観しているわけではない。
  • 必要なとき、神の時に、ふさわしい導きと助けを与えてくださっている。
  • 大いなる神の祝福の中にいても、命からがら逃げなければならないときもある、走らなければならないときもある。しかし、その時も神がともにいて、働いておられることを忘れてはならない。
  • だからどんなことがあっても大丈夫。目の前の現実がどうであれ、神が私と共にいらっしゃること、導いてくださることを信じて、走り抜こう。