神の子どもとなる  ヨハネによる福音書第1章12節

2010年4月25日 10時半 第17回礼拝

ヨハネの福音書1章12節には、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。人類はみな神の子どもではないのでしょうか?確かにそうです。3節には「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とあります。神がイエス様によって私たちを造られた。私たちはすべて神により生を受け、そして空気や水など生存に必要なあらゆるものを神からいただいて生きている。だから私たちはすべて神の子どもなのです。しかし、子でありながら皆がその特権にあずかれるわけではありません。放蕩息子のたとえ話(ルカによる福音書15章)では、ある資産家の弟息子が父が生存中に財産の分け前をもらい、それを浪費して食べるものにも困るようになります。この息子は、確かに大金持ちの父親の子どもには違いないのですが、もはやその特権は失われてしまったのです。私たちも皆かつてはこの息子のように、さまよえる小羊のように、父なる神の家から離れ、そこに戻る方法もない存在だったのです。しかしイエス様は、放蕩息子である私たちを父なる神と和解させてくださり、私たちは子としてのすべての特権を教授することが出来る存在となりました。イエス様を信じることによって真の意味での神の子どもとされたのです。
この方を「受け入れる」とはどういうことでしょう。イエス様は神からの最大の贈り物です。イエス様の十字架での犠牲があったからこそ、私たちは神の子どもとなれるのです。しかし、この贈り物は受け取らなければなりません。あなたが何週間もかけて編み上げたセーターを大好きな人にプレゼントしたとします。そのすてきな、愛のこもったセーターも、その人が受け取ってくれなければ、その人に何の益ももたらしません。イエス様は神からの愛のプレゼントです。「これほどまでにわたしはあなたを愛しているよ」というメッセージが込められています。しかし私たちが感謝して受け取らない限り、私たちに何の益ももたらしません。イエス様を「受け入れる」とはイエス様の「名を信じる」ことだと書いています。聖書では名とはその人の本質を表します。イエス様の名を信じるとは、イエス様がどんな方だということを知ってその方を信頼することです。この方は、私たちの罪を赦すために自らを犠牲にして十字架にかかり、そしてご自分を十字架にかけた者達のために「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです。」といって取りなしてくださった方です。このイエスを信じ、信頼し、より頼んでいくときに、私たちは神の子どもとされるのです。