2010年3月21日「十字架(2)」ルカによる福音書 23章32~43節

十字架(2) ルカによる福音書 23章32~43節

 イエス様は十字架に架けられながら七つの言葉を発せられました。先週はその最初の言葉「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(34節)を取り上げました。今週は、2番目の言葉を取り上げます。それは、43節にある「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」です。

 イエス様とともに二人の強盗が十字架刑につけられました。今日はこの二人の強盗について考えてみたいのです。この二人は自分たちも認めるように極刑にされても文句を言えないほど悪いことをしてきたようです。しかし彼らも生まれたときから悪かったわけではないでしょう。ひょっとしたらイエス様の母マリアと同じようにこの強盗たちの母親も悲嘆に胸を引き裂かれる思いで十字架のそばに立っていたのかもしれません。「子どもの時はあんなに素直でいい子だったのに、どうしてこんなことになってしまったのか。さぞ痛かろう、苦しかろう。できるものなら私が代わってやりたい。」そんな思いでいたのかもしれません。子どもの頃は素直だったのに、思春期頃から悪い仲間に誘われて悪い遊びを覚え、まもなく盗みを重ねて警察のお世話になるようになってしまった。もちろん何度も立ち直らせようとしたけど、注意をすると私にまで暴力をふるい、手がつけられなくなった。あげくに人殺しまでしてしまった。罪もない家族を幼い子どもを含め5人も殺してしまった。どうしてこんな恐ろしいことができる子になってしまったんだろう。確かにこの子のしたことは悪い。死刑になっても当然。でも、やっぱりこの子は私のお腹を痛めて産んだ子。あきらめきれない。ひょっとしたらそんな母親が十字架を見上げていたのかもしれません。

 実は、この母親の気持ちが父なる神の心なのです。そして、この強盗たちは私たちを代表しているのです。私たちはみな十字架につけられても仕方がないほど罪にまみれているのです。「えっ、でも私は人も殺していないし、盗みを働いたこともないのに」と思われるかもしれません。しかし、神は人の心をごらんになります。人に対する憎しみ、傷つける言葉を発する無慈悲、人の苦しみに対する無関心、など私たちの心には自己中心という罪が巣くっています。そして何より私たちにいのちを与え、支え、良きもので楽しませてくださる創造者を無視して、感謝もせずに生きている。この自己中心の罪が人との関係を壊し、平和を壊し、自然環境を壊しています。私たちは確かに有罪なのです。しかし、神は私たちを母親が愛する以上に愛しています。たとえ罪にまみれていても愛するわが子を死刑にしたくないのです。そこで神がしてくださった驚くべき解決策は、神の一人子イエス様を身代わりに十字架につけるというものでした。「代われるものなら私が代わってやりたい」この思いを実行してくださったのがイエス様の十字架なのです。三位一体ですから、イエス様が十字架にかかってくださったということは父なる神が十字架にかかってくださったと同じことなのです。完全な愛、完全な赦しには大きな犠牲が伴います。その犠牲を払ってまで私たちを愛してくださったのがイエス様であり、父なる神なのです。

 しかし、この愛、この赦し、この救いはへりくだって受け入れる者にしか届きません。強盗の一人は、十字架にかかりながらこの救いに預かります。しかし、もう一人の強盗にはこの救いは届きませんでした。神を神と認めない、救い主を救い主と認めない、あわれみを求めない者にはせっかくの愛も届かないのです。私たちの過去がどうあれ、現在がどうあれ、罪を認め、救いを求める者には天国が約束されているのです。そして、この強盗のようにぎりぎりまで待つ必要はありません。イエス様の十字架が自分のためだとわかった日から神の国を味わいながら生きることができるのです。

 

 イエス様は十字架に架けられながら七つの言葉を発せられました。先週はその最初の言葉「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(34節)を取り上げました。今週は、2番目の言葉を取り上げます。それは、43節にある「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」です。

 イエス様とともに二人の強盗が十字架刑につけられました。今日はこの二人の強盗について考えてみたいのです。この二人は自分たちも認めるように極刑にされても文句を言えないほど悪いことをしてきたようです。しかし彼らも生まれたときから悪かったわけではないでしょう。ひょっとしたらイエス様の母マリアと同じようにこの強盗たちの母親も悲嘆に胸を引き裂かれる思いで十字架のそばに立っていたのかもしれません。「子どもの時はあんなに素直でいい子だったのに、どうしてこんなことになってしまったのか。さぞ痛かろう、苦しかろう。できるものなら私が代わってやりたい。」そんな思いでいたのかもしれません。子どもの頃は素直だったのに、思春期頃から悪い仲間に誘われて悪い遊びを覚え、まもなく盗みを重ねて警察のお世話になるようになってしまった。もちろん何度も立ち直らせようとしたけど、注意をすると私にまで暴力をふるい、手がつけられなくなった。あげくに人殺しまでしてしまった。罪もない家族を幼い子どもを含め5人も殺してしまった。どうしてこんな恐ろしいことができる子になってしまったんだろう。確かにこの子のしたことは悪い。死刑になっても当然。でも、やっぱりこの子は私のお腹を痛めて産んだ子。あきらめきれない。ひょっとしたらそんな母親が十字架を見上げていたのかもしれません。

 実は、この母親の気持ちが父なる神の心なのです。そして、この強盗たちは私たちを代表しているのです。私たちはみな十字架につけられても仕方がないほど罪にまみれているのです。「えっ、でも私は人も殺していないし、盗みを働いたこともないのに」と思われるかもしれません。しかし、神は人の心をごらんになります。人に対する憎しみ、傷つける言葉を発する無慈悲、人の苦しみに対する無関心、など私たちの心には自己中心という罪が巣くっています。そして何より私たちにいのちを与え、支え、良きもので楽しませてくださる創造者を無視して、感謝もせずに生きている。この自己中心の罪が人との関係を壊し、平和を壊し、自然環境を壊しています。私たちは確かに有罪なのです。しかし、神は私たちを母親が愛する以上に愛しています。たとえ罪にまみれていても愛するわが子を死刑にしたくないのです。そこで神がしてくださった驚くべき解決策は、神の一人子イエス様を身代わりに十字架につけるというものでした。「代われるものなら私が代わってやりたい」この思いを実行してくださったのがイエス様の十字架なのです。三位一体ですから、イエス様が十字架にかかってくださったということは父なる神が十字架にかかってくださったと同じことなのです。完全な愛、完全な赦しには大きな犠牲が伴います。その犠牲を払ってまで私たちを愛してくださったのがイエス様であり、父なる神なのです。

 しかし、この愛、この赦し、この救いはへりくだって受け入れる者にしか届きません。強盗の一人は、十字架にかかりながらこの救いに預かります。しかし、もう一人の強盗にはこの救いは届きませんでした。神を神と認めない、救い主を救い主と認めない、あわれみを求めない者にはせっかくの愛も届かないのです。私たちの過去がどうあれ、現在がどうあれ、罪を認め、救いを求める者には天国が約束されているのです。そして、この強盗のようにぎりぎりまで待つ必要はありません。イエス様の十字架が自分のためだとわかった日から神の国を味わいながら生きることができるのです。