Archive for the ‘礼拝’ Category

喜びをもたらす方 (ヨハネによる福音書第2章1-11節)

日曜日, 5月 23rd, 2010

2010年5月23日 10時半 第21回礼拝

イエス・キリストというと、どういうイメージを思い浮かべられるでしょうか?優しく、清らかな人、でもどちらかというとくそまじめでおもしろくない、いった感じではないでしょうか。でも、イエス様がパレスチナの地で人々に神様の話をされていた時つけられたあだ名の一つは、「食いしんぼうの大酒飲み」(マタイ 11:19)でした(実際には酔っぱらうほどお酒を飲んだわけではないのですが)。イエス様は宴会が大好きだったようです。そして、奇跡を起こす人、神の預言者という噂だけでなく、イエス様はきっと一緒にいると楽しい方だったに違いありません。ですから、様々な人々に招かれて食事を共にしました。その中には取税人や娼婦その他当時悪名高いたちもたくさん含まれていました。イエス様はそういう人たちに対して「悔い改めないと地獄に行くぞ」などと言って脅したりはしませんでした。一緒に食べて飲んで楽しい時を過ごしながら、優しく天国の話をし、罪を赦しました。それが自分の罪深さを知る人々の心を溶かし、神様に立ち返らせたのです。

今日の聖書箇所でも、イエス様はカナという小さく貧しい村の結婚披露宴に招かれ、出席します。そこで、ワインがつきてしまうという事件が起こります。これは、当時の人々にとっては大事件で、ワインを用意する責任があった新郎の親にとっては末代までの恥となり得ることでした。そこで、イエス様が水をワインに変えてこの問題を解決してくださったというお話しです。でも、これは現代の私たちにも当てはまるお話しなのです。私たちもイエス様を自分の人生に招けば、イエス様は必ず来てくださいます。そして、私たちの人生に起きる様々な問題の解決を助けてくださるのです。それだけでなく、嬉しいときには一緒に喜んでくださり、悲しいことが起これば一緒に悲しんでくださる。そういうお方なのです。

当時ワインは喜びをもたらすものを表しました。イエス様は私たちの人生を喜びであふれさせてくださる方です。6つの水瓶いっぱいのワイン。それは、くめどもくめども尽きないほどの無尽蔵の恵みを表しているようです。恵みとは何でしょうか?それは、私たちが受ける価値がないにもかかわらず、神様が一方的に私たちにくださる良きものです。私たちはいろいろな失敗をします。自分自身がいやになるときもあります。そもそも人間はどんなに頑張っても、神の前に堂々と立てるほど立派にはなれません。でも、何があっても、あなた過去・現在がどうあっても、私はあなたが大好きだ、あなたは私にとって大切な存在だ、と言ってくださるのです。だから、喜びがあるのです。私が私自身を信じられなくなり、絶望しても、神様は私に絶望されないのです。何があっても、私とともにいて、励ましてくださる、そういうお方なのです。だから何があっても大丈夫、自信を持って生きていけるのです。

最初の弟子たち「アンデレ」(ヨハネによる福音書第1章40-42節)

日曜日, 5月 16th, 2010

2010年5月16日 10時半 第20回礼拝

   今日はキリストの12弟子の一人アンデレのお話をしたいと思います。この人は12弟子の一人とはいっても直接その名前が聖書に登場するのは数回のみです。長年教会に通っている人でもアンデレというと、弟子の中のリーダー格であったペテロの兄弟であり、同じく漁師であったことくらいしか思い出せない方が多いと思います。アンデレは最初洗礼者ヨハネの弟子でした。それがイエス様と出会ってこれはすごい人だ、この人こそ救い主ではないかと感じます。そしてまっさきに兄弟ペテロのもとに行き、イエス様に引き合わせたのです。次にアンデレが出てくるのは、イエス様がわずか5つのパンと2匹の魚で5000人を満腹にさせた奇跡の時です。そのパンと魚を持っていた少年を見つけ、イエス様の元に連れてきたのがアンデレでした。ヨハネ書で最後にアンデレが登場したとき、彼はギリシャ人をイエス様に紹介する役割をしました。このように、アンデレは目立ちませんが、人々をイエス様の元に連れてくるという大切な役割をしたのです。
   しかし、私たちがこのアンデレの立場だったら、彼のようにいることが出来たでしょうか。ねたみや苦々しさ、不平に心を乱され、イエス様について行くことが出来なくなってしまわなかったでしょうか。アンデレの方が先に弟子になったにもかかわらず、聖書を見ると出てくるのはペテロの話ばかりです。特に、イエス様は特別な出来事の場合、12弟子の中の3人だけを一緒に連れて行きました。ペテロとヨハネ、その兄弟ヤコブです。なぜ、ペテロやヨハネだけなんだ。俺がペテロをイエス様に紹介してやったんじゃないか。どうしていつも兄貴だけなんだ。そう思っても不思議はなかったでしょう。でもアンデレはそういった思いに振り回されることはなかったようです。
   このアンデレの心の平安の秘訣は何だったのでしょう。それは、彼がイエス様と一緒に毎日生活をしていく中で、イエス様が、すなわち神がどんな方であり、自分がどんな価値を持っているかがわかったからでしょう。12弟子に与えられた役割は様々です。能力、性格、信条も全く異なるこの弟子たち一人一人をイエス様は愛されました。後に自分を裏切ることになるユダさえも愛しました。しかし、愛すると言うことは誰に対しても全く同じことをするというわけではありません。それぞれが異なる性格、長所、短所があり、それぞれに役割があります。しかし、神様の愛は同じなのです。兄貴は兄貴でイエス様に用いられている。俺は俺なりにイエス様に用いられている。それでいいのだ。
   この自分に満足するというのは向上心を持たなくても良いということではありません。私たちは皆こういうこともしたい、こういう風にも変わりたい、という願望があります。それは素晴らしいことです。でも、私たちは人と比べることによって自分の価値を決めなくても良いのです。私たちが何が出来ようと出来まいと、何をしようがしまいと、神の私たちへの愛は変わらず、私たちは神にとって価値ある者なのです。わたしたちは、イエス様によって神の子どもとしていただいたからです。

何を求めているのか (ヨハネによる福音書第1章35~39節)

土曜日, 5月 15th, 2010

2010年5月9日(野外礼拝) 説教要旨

   あなたは何を求めて生きているでしょうか?経済的にゆとりがあり、家族が仲良く、健康で、仕事や学業でもそれなりに成功をおさめている。確かにこれらのことは望ましいですし、達成するのも決して簡単ではありません。一方、これらだけでは満足できないという方もいらっしゃるでしょう。もっと自分の存在意義を感じたい、生き甲斐を感じたい。今は良くても将来が不安だから安心感を持ちたい。そういった心の飢え渇きのようなものを持っていらっしゃるかもしれません。
   イエス様に対してはどうでしょう?すでに信仰を持っている方、持ってはいないが興味がある方はイエス様にどんな期待をされているのでしょう?健康、お金、人関関係などに関する問題の解決。充実した、意義ある人生。将来に対する、また死に対する心の平安。心の支え。正しい選択をするための強さ。
   私たちは毎日を生きることで精一杯で、ともすると自分が「本当に」求めているものを見失いがちです。イエス様はご自分のもとに来る人々に対しときどき問われます。あなたは何を求めているのですか。すなわち、私に何を期待しているのですか?あなたの本当の問題は何ですか?あなたの本当に捜しているものは何ですか?あなたが本当に必要としているもの何ですか?それが何であれ、ご自分を真剣に求める者に対しイエス様は「来なさい。そうすればわかります。」と言って招いてくださいます。
   来て私とじっくりと時を過ごしなさい。私の話を聞き、私のすることを見、共に食事をしなさい。そうすれば、私のことがわかります。ある人達は、十分に理解してからイエス様の元に来ようとします。しかし、イエス様とふれあうことなしにイエス様のことをわかることは出来ません。聖書と通してイエス様を知的に理解するだけでなく、イエス様に私たちの日々の生活の中に来ていただいて、お言葉をいただき、愛され、励まされ、力をいただき、平安をいただく。そういったことを通して、イエス様のことがリアルにわかるのです。
   イエス様は、私たちに平安を与えると約束してくださっています。この平安は、自分に対する平安、人との関係における平安、そして神との関係における平安です。この世が与える平安は条件付きです。経済状況や健康、成功失敗その他の外的要因によっていとも簡単に崩れ去る可能性を常に持っています。しかし、イエス様が与えてくださる平安は環境が変わっても変わることのない絶対的な平安です。

イエス・キリストは偉大な人物?ヨハネ第1章1~18節

土曜日, 5月 8th, 2010

2010年5月2日 10時半 第18回礼拝

 昨晩はテレビで映画「ダ・ヴィンチ・コード」をやっていて、私は最後の1時間だけ見ました。この映画そして原作は世界各国で大変な人気となりました。しかし、キリスト教の伝統の強い国では大きな物議をかもしました。なぜかというと、イエス・キリストはマグダラのマリヤと結婚して子供をもうけ、その家系が現代まで続いているという主張をしているからです。そして、それが事実ならばイエスは神ではなくただの人であり、長年カトリック教会はその事実をひた隠しにしてきたというのです。映画の最後で主人公のラングドンがこう言います。「イエス・キリストがただの人だったのか神だったのかはわからない。でもはっきりしていることは彼は偉大な人物だったということだ。」イエスが偉大な人物であったということを認める人はキリスト者でなくても大勢います。そしてイエス様を信仰する私たちキリスト者としては、少し嬉しい気持ちにもなります。しかし、ナルニア国物語を書いた作家であり、神学者であるC.S.ルイスはこう言っています。「イエスは偉大な人物であったが神ではなかったという主張は出来ない。私たちに出来るのは、イエスはただの人であり、偉大な人物ではなかった、それどころか大嘘つきか誇大妄想狂であった、と結論する。さもなければ、イエスは偉大な人物であり、救い主であり、神であった、と認める。そのどちらかの選択肢しか私たちにはない。」イエスは数々の奇跡の業を行っただけでなく、弱い人たちをあわれみ、同時に自分たちの罪に気づかない宗教指導者達を厳しく叱責しました。「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。あなたがしてもらいたいように人にもしなさい。あなたの敵を愛しなさい。」などかずかずの珠玉の教えを残され、それをご自分でも実行されました。しかし、それだけではありません。イエスは、ご自分を神と主張されました。もしだれかがどんなに立派なこと、偉大なことを成し遂げても、たとえ愛のために人の代わりに犠牲となっても、もしその人が自分のことを神だと主張したら。これは、誇大妄想を疑われて当然です。どんな教会に行っても、そこで牧師が私は神ですと主張したら間違いなくその教会は異端(カルト)です。しかし、イエス様は確かに神であられた、そして永遠に神です。キリスト者は、イエス様をご自身が主張なされたとおりキリスト(救い主)そして神であるとして信じ、それによって生きる者です。

神の子どもとなる  ヨハネによる福音書第1章12節

土曜日, 5月 1st, 2010

2010年4月25日 10時半 第17回礼拝

 ヨハネの福音書1章12節には、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。人類はみな神の子どもではないのでしょうか?確かにそうです。3節には「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とあります。神がイエス様によって私たちを造られた。私たちはすべて神により生を受け、そして空気や水など生存に必要なあらゆるものを神からいただいて生きている。だから私たちはすべて神の子どもなのです。しかし、子でありながら皆がその特権にあずかれるわけではありません。放蕩息子のたとえ話(ルカによる福音書15章)では、ある資産家の弟息子が父が生存中に財産の分け前をもらい、それを浪費して食べるものにも困るようになります。この息子は、確かに大金持ちの父親の子どもには違いないのですが、もはやその特権は失われてしまったのです。私たちも皆かつてはこの息子のように、さまよえる小羊のように、父なる神の家から離れ、そこに戻る方法もない存在だったのです。しかしイエス様は、放蕩息子である私たちを父なる神と和解させてくださり、私たちは子としてのすべての特権を教授することが出来る存在となりました。イエス様を信じることによって真の意味での神の子どもとされたのです。
 この方を「受け入れる」とはどういうことでしょう。イエス様は神からの最大の贈り物です。イエス様の十字架での犠牲があったからこそ、私たちは神の子どもとなれるのです。しかし、この贈り物は受け取らなければなりません。あなたが何週間もかけて編み上げたセーターを大好きな人にプレゼントしたとします。そのすてきな、愛のこもったセーターも、その人が受け取ってくれなければ、その人に何の益ももたらしません。イエス様は神からの愛のプレゼントです。「これほどまでにわたしはあなたを愛しているよ」というメッセージが込められています。しかし私たちが感謝して受け取らない限り、私たちに何の益ももたらしません。イエス様を「受け入れる」とはイエス様の「名を信じる」ことだと書いています。聖書では名とはその人の本質を表します。イエス様の名を信じるとは、イエス様がどんな方だということを知ってその方を信頼することです。この方は、私たちの罪を赦すために自らを犠牲にして十字架にかかり、そしてご自分を十字架にかけた者達のために「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです。」といって取りなしてくださった方です。このイエスを信じ、信頼し、より頼んでいくときに、私たちは神の子どもとされるのです。

 

あなたを生かす光の言葉 ヨハネによる福音書第1章1~18節

月曜日, 4月 19th, 2010

2010年4月18日 10時半 第16回礼拝

 神様ってどんな方だろう。そんなことを考えたことはありませんか。広大な宇宙に整然と天体が運行していることを知るとき、雄大な自然を見るとき、私たちは自分の小ささを感じ、これらを造られた方がいらっしゃるのではないかと感じさせられます。また、私たちの身体がいかに複雑、精巧に出来ているかを知るとき、とても偶然の産物とは思えません。しかし、こうして創造主の計り知れない叡智と力を垣間見ることは出来ても、それはやはりぼんやりとした抽象的ものにならざるを得ません。神は時間と空間を超越して居る方ですが、その神の一人子であるイエス・キリストが2000年前、人となりこの地上に来てくださいました。イエス様は、わたしを見なさい、そうすれば神様がわかるよ、とおっしゃいました。新約聖書にはこのイエス様のことば、行動が記録されています。このイエス様は数々の力ある業をおこなっただけでなく、ご自分を十字架につけた人たちのために「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」と言って取りなしてくださった方です。自分をこれほどまでも憎む者さえもあわれみ、愛するお方、それがあなた方を造った神なのだ。自らを犠牲にしてもあなたを愛する方、それが神なのだ。そう、イエス様は教えてくださっているのです。
 人にとって暗闇というのは、本当に恐ろしいものです。右も左もわからない。何が待ち受けているのかもわからない。しかし、そこに光が差し込むと闇に覆われていたものが明らかになります。私たちの人生でも闇に入り込むことがあります。そうした人生の闇の中にともしびとなり、闇を追い払ってくださるお方がイエス様です。「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」(ヨハネ12:46)。しかし、闇は私たちの心の中にもあります。イエス様は、私たちの心の中を光で照らし、私たちが隠しておきたい、または気づいていなかった罪を明るみに出してくださいます。誰もが持っている自己中心という罪。それは、私たちの人間性を貧しいものにしています。私たちの愛のなさ、無慈悲、自分勝手、高慢、怒りっぽさ、ねたみ。イエス様はそれらを明るみ出すだけでなく、それでもそのままであなたを愛しているよ、とおっしゃるのです。ですから、私たちは素直になれるのです。
 イエス様はことばなる神と書いてあります。創世記を見ると神様はことばを通してすべてのものを創造されたと書いてあります。神のことばには、創造の力があるのです。私たちは数多くの否定的なことばに囲まれて暮らしています。上司からの心ないことば、教室でのいじめのことば、メールやネット上での中傷・非難、家族の間でさえ互いに傷つけ合うことばが飛び交っています。本当に恐ろしいのはそれらのことばが私たちの心の中のことばとなって私たちを責め、否定し、落ち込ませてしまうことです。しかし、神のことばはいのちある光のことばです。恵みとまことに満ちています。この神のことばを宣言することによって私たちは、否定的ことばに対抗し、打ち負かすことが出来るのです。

復活(2) ヨハネ20:24~29

土曜日, 4月 17th, 2010

 今日の聖書箇所はイエス様の12使徒の一人トマスという人の物語です。この人は、欧米圏では疑り深い人の代名詞として使われています。彼はほかの使徒からイエスが復活なさったということを聞いても信じられませんでした。この自分の目で見、手で触ってみなければ決して信じないと言ったのです。そんなトマスにもイエス様は現れてくださり、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」とおっしゃったのです。伝承ではこのトマスはその後インドにまで行って布教したと言われています。

 イエスの復活を簡単に信じられなかったのはトマスだけだったのでしょうか。実はほかの使徒たちや弟子たちも同じだったのです。そのような者たちに復活したイエスは、繰り返し現れ、名前を呼び、語りかけ、食事を共にしてくださったのです。その復活したイエスとの親しい時を過ごす体験を通して、確かにイエスは復活され、生きていらっしゃる、という確信が生まれたのです。私たちの信仰も同じです。見ずに信ずることは難しい。でも、信仰とは見えないものを信ずることにあるのです。そして、この目には見えないイエスを信頼してすがり、そして助けていただく経験を積み重ねていくとき、私たちも確かにイエスは生きておられる、という実感を持つようになるのです。

 わたしもそのようにしてイエス様に助けてもらってきました。自分の力ではどうしようもない、人の力でもどうしようもない、そういった状況で「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28章20節)という約束を信じ、現実はどう見えようとも、何があっても大丈夫だ、という励ましをいただき乗り越えてきました。これがわたしの信仰の財産です。しかし、そういった体験をした後でも疑いが起こり、信仰が無くなったときも何度もありました。しかし、それでもイエス様はわたしを見捨てられなかった。何度もわたしを引き寄せてくださった。そうして、信仰を保ってきました。わたしが賛美を捧げるとき、感謝を捧げるとき、日々の生活で導きを受けるとき、自分を不幸にする罪の誘惑を退ける力を与えられるとき、わたしは復活のイエス様に出会い、見ずに信ずる者の幸いに預かるのです。

2010年3月28日 十字架(3)マタイによる福音書 27章46節

土曜日, 4月 3rd, 2010

 私たちの人生にはつらいことがたくさんあります。その中で最もつらいことの一つは、愛する人に裏切られることではないでしょうか。身を犠牲にしてまでも愛し育てた子どもに裏切られる。信頼していた友人に裏切られる。夫や妻に、恋人に裏切られる。「こんなに愛したのに、こんなに尽くしたのに。なんで」と思いたくなるでしょう。残念ながら私たちの人間関係の中ではしばしばこういうことが繰り返されることがあります。一度ならずも二度までも、三度までも、となりますと、もうその人をあきらめたくなります。もう縁を切りたくなります。実は、神様と私たちの関係も同様なのです。ただし、裏切ったのはいつも私たちの方です。神は私たちを愛を持って造り、良きものを持って慈しみ、はぐくんでくださいました。しかし、人間はそんな神様を無視し自分勝手な生き方をし、自分、人との関係、自然環境さえも壊してきたのです。そうして都合が悪いことがあると、神の生だとか、神は私たちを愛していないなどと文句を言ってきたのです。

 神様も感情を持っていらっしゃいますから、愛する者から無視されたり、誤解されたり、裏切られたりすることでどんなに心を痛められてきたことでしょう。しかし、人間と違い神は完全なる愛のお方です。裏切り続ける人間を神は見捨てることができないのです。イエス様が十字架で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたとき、イエス様は本当に神に見捨てられたのです。見捨てられておかしくなかったのは私たちなのです。イエス様が身代わりになってくださったおかげで、私たちは決して神から見捨てられない恵みを受けたのです。私たちが、愛されるにふさわしい者であるからとか、何か良いことをしたからではありません。神が私たちを愛してやまないからそうなさったのです。

 私たちの人生で、人から見捨てられ、神からも見捨てられたと感じるときがあっても、イエス様の十字架というとてつもない犠牲を払ってくださった神が私たちを見捨てるはずがないのです。神は、どんなことがあっても救いを求める者を見捨てはしません.

2010年3月21日「十字架(2)」ルカによる福音書 23章32~43節

土曜日, 3月 27th, 2010

十字架(2) ルカによる福音書 23章32~43節

 イエス様は十字架に架けられながら七つの言葉を発せられました。先週はその最初の言葉「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(34節)を取り上げました。今週は、2番目の言葉を取り上げます。それは、43節にある「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」です。

 イエス様とともに二人の強盗が十字架刑につけられました。今日はこの二人の強盗について考えてみたいのです。この二人は自分たちも認めるように極刑にされても文句を言えないほど悪いことをしてきたようです。しかし彼らも生まれたときから悪かったわけではないでしょう。ひょっとしたらイエス様の母マリアと同じようにこの強盗たちの母親も悲嘆に胸を引き裂かれる思いで十字架のそばに立っていたのかもしれません。「子どもの時はあんなに素直でいい子だったのに、どうしてこんなことになってしまったのか。さぞ痛かろう、苦しかろう。できるものなら私が代わってやりたい。」そんな思いでいたのかもしれません。子どもの頃は素直だったのに、思春期頃から悪い仲間に誘われて悪い遊びを覚え、まもなく盗みを重ねて警察のお世話になるようになってしまった。もちろん何度も立ち直らせようとしたけど、注意をすると私にまで暴力をふるい、手がつけられなくなった。あげくに人殺しまでしてしまった。罪もない家族を幼い子どもを含め5人も殺してしまった。どうしてこんな恐ろしいことができる子になってしまったんだろう。確かにこの子のしたことは悪い。死刑になっても当然。でも、やっぱりこの子は私のお腹を痛めて産んだ子。あきらめきれない。ひょっとしたらそんな母親が十字架を見上げていたのかもしれません。

 実は、この母親の気持ちが父なる神の心なのです。そして、この強盗たちは私たちを代表しているのです。私たちはみな十字架につけられても仕方がないほど罪にまみれているのです。「えっ、でも私は人も殺していないし、盗みを働いたこともないのに」と思われるかもしれません。しかし、神は人の心をごらんになります。人に対する憎しみ、傷つける言葉を発する無慈悲、人の苦しみに対する無関心、など私たちの心には自己中心という罪が巣くっています。そして何より私たちにいのちを与え、支え、良きもので楽しませてくださる創造者を無視して、感謝もせずに生きている。この自己中心の罪が人との関係を壊し、平和を壊し、自然環境を壊しています。私たちは確かに有罪なのです。しかし、神は私たちを母親が愛する以上に愛しています。たとえ罪にまみれていても愛するわが子を死刑にしたくないのです。そこで神がしてくださった驚くべき解決策は、神の一人子イエス様を身代わりに十字架につけるというものでした。「代われるものなら私が代わってやりたい」この思いを実行してくださったのがイエス様の十字架なのです。三位一体ですから、イエス様が十字架にかかってくださったということは父なる神が十字架にかかってくださったと同じことなのです。完全な愛、完全な赦しには大きな犠牲が伴います。その犠牲を払ってまで私たちを愛してくださったのがイエス様であり、父なる神なのです。

 しかし、この愛、この赦し、この救いはへりくだって受け入れる者にしか届きません。強盗の一人は、十字架にかかりながらこの救いに預かります。しかし、もう一人の強盗にはこの救いは届きませんでした。神を神と認めない、救い主を救い主と認めない、あわれみを求めない者にはせっかくの愛も届かないのです。私たちの過去がどうあれ、現在がどうあれ、罪を認め、救いを求める者には天国が約束されているのです。そして、この強盗のようにぎりぎりまで待つ必要はありません。イエス様の十字架が自分のためだとわかった日から神の国を味わいながら生きることができるのです。

 

 イエス様は十字架に架けられながら七つの言葉を発せられました。先週はその最初の言葉「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(34節)を取り上げました。今週は、2番目の言葉を取り上げます。それは、43節にある「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」です。

 イエス様とともに二人の強盗が十字架刑につけられました。今日はこの二人の強盗について考えてみたいのです。この二人は自分たちも認めるように極刑にされても文句を言えないほど悪いことをしてきたようです。しかし彼らも生まれたときから悪かったわけではないでしょう。ひょっとしたらイエス様の母マリアと同じようにこの強盗たちの母親も悲嘆に胸を引き裂かれる思いで十字架のそばに立っていたのかもしれません。「子どもの時はあんなに素直でいい子だったのに、どうしてこんなことになってしまったのか。さぞ痛かろう、苦しかろう。できるものなら私が代わってやりたい。」そんな思いでいたのかもしれません。子どもの頃は素直だったのに、思春期頃から悪い仲間に誘われて悪い遊びを覚え、まもなく盗みを重ねて警察のお世話になるようになってしまった。もちろん何度も立ち直らせようとしたけど、注意をすると私にまで暴力をふるい、手がつけられなくなった。あげくに人殺しまでしてしまった。罪もない家族を幼い子どもを含め5人も殺してしまった。どうしてこんな恐ろしいことができる子になってしまったんだろう。確かにこの子のしたことは悪い。死刑になっても当然。でも、やっぱりこの子は私のお腹を痛めて産んだ子。あきらめきれない。ひょっとしたらそんな母親が十字架を見上げていたのかもしれません。

 実は、この母親の気持ちが父なる神の心なのです。そして、この強盗たちは私たちを代表しているのです。私たちはみな十字架につけられても仕方がないほど罪にまみれているのです。「えっ、でも私は人も殺していないし、盗みを働いたこともないのに」と思われるかもしれません。しかし、神は人の心をごらんになります。人に対する憎しみ、傷つける言葉を発する無慈悲、人の苦しみに対する無関心、など私たちの心には自己中心という罪が巣くっています。そして何より私たちにいのちを与え、支え、良きもので楽しませてくださる創造者を無視して、感謝もせずに生きている。この自己中心の罪が人との関係を壊し、平和を壊し、自然環境を壊しています。私たちは確かに有罪なのです。しかし、神は私たちを母親が愛する以上に愛しています。たとえ罪にまみれていても愛するわが子を死刑にしたくないのです。そこで神がしてくださった驚くべき解決策は、神の一人子イエス様を身代わりに十字架につけるというものでした。「代われるものなら私が代わってやりたい」この思いを実行してくださったのがイエス様の十字架なのです。三位一体ですから、イエス様が十字架にかかってくださったということは父なる神が十字架にかかってくださったと同じことなのです。完全な愛、完全な赦しには大きな犠牲が伴います。その犠牲を払ってまで私たちを愛してくださったのがイエス様であり、父なる神なのです。

 しかし、この愛、この赦し、この救いはへりくだって受け入れる者にしか届きません。強盗の一人は、十字架にかかりながらこの救いに預かります。しかし、もう一人の強盗にはこの救いは届きませんでした。神を神と認めない、救い主を救い主と認めない、あわれみを求めない者にはせっかくの愛も届かないのです。私たちの過去がどうあれ、現在がどうあれ、罪を認め、救いを求める者には天国が約束されているのです。そして、この強盗のようにぎりぎりまで待つ必要はありません。イエス様の十字架が自分のためだとわかった日から神の国を味わいながら生きることができるのです。

2010年3月14日礼拝説教  十字架(1) ルカによる福音書 23章34節

土曜日, 3月 20th, 2010

 新約聖書の1ページを開けますとイエス・キリストの系図が延々と書いてあります。一見無意味な名前の羅列ですが、少し背景を調べますと、人間の数々の失敗の歴史を見ることができます。たとえばダビデ王が人妻と関係を持って生まれたのがソロモンです。そのほかにも娼婦あり、義理の父との関係を持った者あり、聖書にはきれい事だけでなく人間の醜さ・失敗も赤裸々に書いてあります。しかし神はそういった失敗者たちをわざわざお選びになって、その中から救い主の誕生を演出されました。このことは、わたしたちのどんな失敗・マイナスをも神は良いもの・プラスに変える力を持っていらっしゃることを物語っています。

 イエス様の十字架もそうです。神は十字架という人間が犯した最悪の失敗を最高の恵みに変えてくださったのです。私たちを神と和解させ、天国に入れてくださる方、救い主として来られた方を人間はなんと十字架につけてしまいました。神が私たちを哀れに思って救いの手をさしのべたのに、人々はそれを拒絶しただけでなく、さんざん侮辱し、暴行を加えたあげく、最後にはもっとも残酷な方法で処刑してしまったのです。映画「パッション」をごらんになった方はわかると思いますが、この状況はマタイの福音書26章から27章にかけて書いてあります。人間を生きている間だけでなく死んでからも永遠に罰する権威を持っている方になしたこの所業。これに対して、イエス様はどうされたか。

 イエス様は十字架の上で苦しみもだえながらこうおっしゃいました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)。神の子である自分を侮辱し、つばきをかけ、殴り、むち打ち、十字架にかけた人間に対し、イエス様の心の中にあふれていたのは呪い・憎しみではなく、あわれみ・愛でした。そのあわれみ・愛によって十字架上で私たちの罪の呪いを全部引き受けてくださったのです。愛の人、何も悪いことをしなかった人、あわれみに満ち、真理に満ち、人々に慰めを与え、癒しを与えた人。そんな人を残酷にも殺してしまう。直接手を下さずとも、それを傍観してしまう。そんな心が私たちの中にもあるのです。それを罪と言います。自分さえ良ければいい、自己中心、高慢、そういったものが私たちの心にもあるのです。私はそんなことはないという人は自分を知らないだけです。

 神がこれほどまで犠牲を払って私たちと和解をしてくださったのなら、何を恐れることがあるでしょう。私たちは何があっても大丈夫なのです。イエス様がついていてくださるからです。私たちがどんなに失敗しても、すべてのマイナスはプラスに変えられるのです。

ローマ 8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。