2010年3月7日礼拝説教 ルカ1:22~34

メッセージ要旨

 

 私たちは人生で様々な挫折・失敗を味わいます。そんなとき、人は自分の無力さ、弱さ、あるいは卑怯さ、醜さを見せつけられます。そして、すっかり自信を喪失して、生きる気力さえなくしてしまうときがあります。

 キリストの12弟子という人たちは、イエス様が捕らえられるまでは、死んでもこの方について行こうと思っていたに違いません。しかし、それは本当の試練にあったことが無いための無知から来る自信でした。実際に神の子・救世主と信じていた方があっさりと捕らえられ、十字架にかけられるという事態になったとき、この弟子たちは自分の身を守るためにイエス様を見捨て、逃げてしまったのです。勇気をふるって逮捕されたイエス様の後をこっそりついて行ったペテロも自分の身が危うくなると三度もイエスなんて知らないと言い張ったのです。

 悪名高いイスカリオテのユダは、わずか銀貨30枚(当時の120日分の収入に相当)でイエス様を裏切り、ユダヤ人の宗教指導者による逮捕を手助けします。お金が欲しかったというよりも、いつまでたってもこの世の王として力をふるう様子がないイエス様に失望し、逮捕によって追い詰め、王として真の力を見せてローマからユダヤを解放せざるを得ない状況を造りたいと願ったのかもしれません。しかし、力をふるうことなくおとなしく逮捕され連行されたイエス様を見て、ユダは激しい自責の念に駆られ、首をくくって自殺してしまいます。

 一方ペテロも、イエスなんて知らない、と言ったときにイエス様と目が合い、激しい自責の念に駆られて泣きます。しかし、ペテロは自ら命を絶つことはしませんでした。裏切ったという点では、ユダだけでなく、ペテロもそのほかの弟子も同じでしょう。イエス様は、「しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います」(マタイ 10:33)とおっしゃったことがあります。しかし、だからといってペテロのことを捨て去りはしませんでした。それどころか、ペテロを赦し、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言ってくださったのです。

 弟子たちはみな挫折を味わいました。自分の弱さ、意気地のなさ、醜さを痛感させられました。もう自分をすっかりあきらめてしまいたくなりました。しかし、そんな弟子たちをイエス様はあきらめませんでした。見捨てませんでした。むしろ、挫折を味わい、赦しを味わった彼らこそ、苦しみの中にいる人を助けることができるようになった者として期待されたのです。

 私たちは、ユダのように自ら神様のあわれみを拒絶する者になってはいけません。神のあわれみ、赦しは、それほど広く、深いのです。 このことを覚えていてください。私たちは、決して自分に嫌気がさしても、絶望してはなりません。神は決して私たちを見捨てないからです。そして、そのあり得ないような恵みを可能にしたのがイエス様の十字架なのです。イエス様が私たちの弱さ、醜さをすべて負って十字架にかかってくださったからこそ、私たちがどんなに失敗しても、もう一度立ち上がることができるのです。神は決して私たちを見捨てないのですから。